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2017年8月

8/20 山城博治さんを招いた“沖縄とむすぶ杉並集会”は大盛況でした

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昨日の“第13回沖縄とむすぶ杉並集会”は、大盛況。山城博治さんの熱い心揺さぶるお話に聞き入りました。92名の会場が満杯になるほど、多くの方にご参加いただきました。「高校生のお孫さんと一緒に来られた年配の方含め7名の方が入れずに帰られた」と
受付担当から報告がありました。御帰りになられたみなさんには、大変申し訳ありませんでした。

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びかけた13名のうち11名が出席し、11時からの準備を含め、皆が力を合わせたこと、とても異議深いと感じています。
最後は「ヒヤミカチ節」で締めました。うちなーんちゅの私たちはいいけれど、大丈夫かなと心配しましたが、予想外の盛り上がりにとても嬉しくなりました。
「ヒヤミカチ節」は沖縄の闘いのテーマソングだと、友人に送ってもらい、それをプログラムにしました。皆さんにもご紹介しますね…。
取り急ぎ、ご報告まで。

P.Sメモリーに入っていました。ついでに、交流会の写真も一つだけご覧ください。私は写真を全く撮ることができず、皆さんから送ってもらうしかありません。

《ヒヤミカチ節の作詞者・平良新助氏について》
 平良新助氏は、今帰仁村で1876年に出生。‘謝花昇’を先頭とした「沖縄自由民権運動」に参加。明治政府の全権委任で沖縄県令に着任した奈良原繁県知事による琉球処分の具体化=沖縄土地整理(この“事業”で旧琉球王府直轄領地は、現在の米軍北部訓練場などの広大な土地が大日本帝国国有地にされた。それは、今日に至る日本国による国内植民地・沖縄の原型となる)などの沖縄圧殺県政と激しく闘った闘士。
 しかし国家暴力と琉球の“事大主義者”(故大田昌秀さんがよく使ったフレーズ)らの前に、謝花らの闘いは敗北を喫し、メンバーはバラバラになることとなった。謝花は運動敗北後の次の人生を山口県に求め、そこに赴く途中の神戸駅頭で発病、その7年後の1908年に死去。精神の病と闘病中の謝花は学童たちの通学路に「奈良原」という文字を書き、それを踏まなければ通ることを許さなかったという。
 謝花のこのような壮絶な生き様を看取りつつ、平良新助氏はアメリカに移住。沖縄戦に至るまで沖縄に帰ることをしなかった。しかし、沖縄戦の惨状を伝え聞いた平良新助氏は、いてもたってもいられず、この「ヒヤミカチ節」を作詞。曲の振り付けを琉球古典音楽の大家・山内成彬氏に依頼。沖縄戦で身も心も打ちしひしがれたウチナーンチュに心からエールを送った。

ヒヤミカチ節 作詞/平良新助 作曲/山内盛彬
1. 名に立ちゅる沖縄 宝島でむぬ 心うち合わち う立ちみそり
2. 稲粟ぬうなり ミルク世ぬ印 心うち合わち 気張りみそり 
3. 学やないし秀らさ 花や咲ち美らさ 我した此ぬ沖縄 世界に知らさ 
4. 人ぬ取ゆる年ぬ んぱんぱなゆみ うびらじに取たさ 60ばんじゃ
5. 我んや虎でむぬ 羽ちきてたぼり 波路バシフィック 渡てなびら
6. 七転び転で ヒヤミカチ起きり   我した此ぬ沖縄 世界に知らさ

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8/18 辺野古の島袋文子さんを招いた集いに参加しました

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昨日は辺野古の文子おばあこと、島袋文子さん(88歳)をお招きした『沖縄に連帯する市民のつどい』が参議院会館で開催され、参加をしました。280人の講堂に500人が集い、急きょ第2会場を設けるなどの大盛況。
私は文さんとは1997年のヘリ基地の是非を問う名護市の市民投票で知り合いました。私の尊敬する故古波津英興翁(99年にご逝去)のいとこで、当時は、古波津さんと一緒によく文さんのお宅を訪問しました。「(親族で)唯一の理解者は『英興兄さん』」ととても慕われ、現在もお会いした時には「英興兄さんがいなくなって寂しい」とおっしゃいます。昨日のお話で、文さんの闘いの決意が壮絶な沖縄戦の体験に裏打ちされていることを知りました。火炎放射器で半身を焼かれ、目の見えないお母さんと一緒に逃げ惑ったこと、死んだ人間の血の泥水を飲んで生き延びたことなど、胸がつまるお話でした。「120歳まで生きて、基地をつくらせないために頑張る」と決意を語られたことに、満場の拍手がわきました。つどい終了後は、首相官邸前での抗議行動に参加、文さんは「安倍首相に会いたい」こと訴えました。
私も文さんに応えられるよう力尽くします。

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